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家入一真さんの『さよならインターネット』を読んで考えたこと

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どうも、星川(@Soh_RundabanSP)です。

 

家入一真さんの『さよならインターネット ~まもなく消えるその輪郭について~』を読みました。

ぼくはこのブログを1年半くらい継続して更新してきたのですが、7月でいったん連続更新を止めました。

その時の気持ちをこの本を言語化してくれた気がします。

 

 

読んでいて「なるほど!」と思うことばかりで一気に読んでしまいました。

 

本の要点をまとめながら、自分が考えたことも書いてみます。

 

発信者としては息苦しく、受信者としては心地よすぎる

本書によればインターネットがかつてのweb2.0に代表されるような希望とはうらはらに、様々な問題を内包していると言います。

それは端的にまとめれば「発信者としては息苦しく、受信者としては心地よすぎる」ということです。

例えばツイッターで何か発言するならば、そのツイートが自分の思いもよらぬ拡散をおこし想定外の人たちにまで届くことがあります。

時に「炎上」と言えるような誹謗中傷が自分に集まってしまうこともあります。

さらに、さながら「警備員」のように不祥事や失言を探し回り、結果的に炎上を楽しむ人たちも現れました。

よからぬものが転がっていないかを常にパトロールする人、悪い輩を見つけると大義名分のもとに叩く人、さらにはそれほど悪いことをしていなくても、ノルマを果たすために強引に悪者に仕立て上げる人。

そんな人たちがインターネット上を跋扈しているように感じるのです。

 

逆に受信者からすると、キュレーションアプリに代表されるようなパーソナライズ機能やSNSでのブロックを駆使することで「見たいものしかない世界」を作り上げることができます。

それは時に偏狭な理論を生み、転じて攻撃的な発信者(つまり警備員)を育む土壌になっている危険性を指摘しています。

知らず知らずのうちに「この世界はあのアイドルのファンであふれている」「この世界に右寄りの人なんていない」というような、極端な世界観に取り込まれてしまう可能性も否定できません。

これを繰り返した未来はどうなるか?

その人の世界は情報の海の中で、むしろ、どんどん狭くなっていくのではないでしょうか?

 

ノイジーマイノリティーの登場と、サブカルチャーの死

この前、ツイッターで「ノイジーマイノリティー」という言葉を初めて知りました。

「過激な少数派」という意味でしょうか。

 

ノイジーマイノリティが本来必要とされる行為や情報を遮断し、社会にとって大きな損失になることがあります。

先の熊本大地震の時、ツイッターでは「不謹慎狩り」が話題となりました。

 

寄付を呼び掛けた芸能人の発言には「売名行為か?」と罵り、逆に普段同様にツイートする人には「こんな時に!」とあらゆる角度から批判を加える行為です。

関連記事:ツイッターが荒れてる?有名人たちが苦言

 

不謹慎狩りによって本来届くはずった支援や義援金がなくなったり、減ったと考えるのは早合点でしょうか?

極端な例かもしれませんが、このようなことがインターネットに対する希望を打ち砕く出来事のように思います。

 

かつてサブカルチャーと呼ばれた文化がありました。

ヒッピーやパンク。

日本のエンタメで言えばかつてはオタクも間違いなくサブカルチャーでした。

クラスの変わり者、イケてないグループになってしまった人たちが好きなモノ。

インターネットは元々そんなサブカルの表現の受け皿だったと思います。

 

本書に登場する「ギーク」も意味としてはネットオタク。

やはりネットとサブカルチャーの結びつきは強いのです。

 

サブカルチャーとは言うまでもなくマイノリティ。

そしてマイノリティには「自分たちこそ正しい」「本当にCOOLなのは少数派の意見」という自負があったように思います。 (多くは消費社会に対するアンチテーゼ)

それがインターネットの希望と紐づき、盛り上がりを支えてきたとぼくは感じています。

 

しかしSNSの台頭により、サブもメインも同様に発言力を持つとどうなったか?

それは「メインカルチャーの崩壊(つまりサブカルチャーの死)」と「ノイジーマイノリティーの登場」です。

 

「発信者としては息苦しく、受信者として心地よすぎる」インターネットは自分の興味関心のみを掘り下げ、国民的なレベルでの共通項を崩壊させます。

(余談だけど、そんな中ブームになったPokemon GOはすごい)

つまり誰しもがサブカルチャー。

一億総マイノリティの世界です。

 

メインカルチャーが力を持っていた時代。

その力でもって、ノイジーマイノリティーを抑圧していたのだと今になって思います。

 

メインとサブが否定しあいながらも、その実お互いの存在をハッキリ浮き上がらせ、求心力をもっていた世界は終わり、変わりに現れたのは持て余すほどの「自由」でした。

消費への価値が急激に失われた結果、生きるうえ、働くうえでの目標やよりどころも失って、むしろ迷っている人ばかりが目立ちます。

迷いあぐねた結果、没頭できるものをムリに見出している人も少なくない。 その行きつく先として浮かび上がった一つが、政治や社会などに向けられる過激な思想や行動であるように思います。

「他者を否定することによって、自らを肯定する」というのは最も短絡的な心のヨリドコロを創る行為です。

しかしネットの世界では誰しもがマイノリティーであり、そもそも完全な理論など存在しませんから、否定することによって自らが肯定されるかと思いきや、また外側から第三者がやってきて今度は自分が否定されることになります。

そのループは議論などど呼べる代物では到底なく、無限アゲアシ取りに思えます。

 

スマホを捨てよ、街へ出よう

このようにかつて描かれたインターネットに対する希望は、ややズレた形に現実になっているようです。

本書の最後では今のインターネットでは望めなくなった「偶然性」の重要性を考え、逆説的ですが自らの行動でそれを得ていく必要があると言います。

 

かつて詩人の寺山修司は「書を捨てよ、町へ出よう」と呼びかけました。

本書ではさながら「スマホを捨てよ、町へ出よう」といったメッセージで締めくくられます。

家入さん風に言うと「エクスターネット的」

そして「飛び出す」ということを考えていたら、あるとき、「エクスターネット的」という言葉を思いつきました。

(~中略~)

パーソナライズ化が進んだ結果、安全になったかもしれないけれど、見たいものしか見ようとしない。

そもそも見えなくなったインターネットでは、もう偶然性は望みにくくなりました。

しかもこの流れはますます強まる。

だからこそ、エクスターネットという考え方を常にアタマのどこかに置いておくことが重要になるはずです。

 

ぼく自身、まだまだインターネットに夢を見ていますし、好きです。

(だからこうやってブログ書いてるんだけど)

エクスターネット的なものを人生に取り入れていたいなと思いました。

 

『さよならインターネット ~まもなく消えるその「輪郭」について~』はネットをナリワイにしている人はもちろん、ネットに対して言いようのない「違和感」を感じている人に読んでほしい良書です。

 

ぜひ、手に取ってみて下さい。

 

 

 

 

 

それでは!

 

 

 

 

 

ところで俺、まちがってねぇよな?

 

 

 

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